マルクスのArbeitsvermögenとHirngespinstについてのフランス語の原文の付加について

 マルクス資本論」第1部「資本の生産過程」第2編「貨幣の資本への転化」第4章「貨幣の資本への転化」第3節「労働力の売買」の中で,ロッシの本の文を引用して,彼の労働力の価値規定を批判するくだりがある(原典187頁第3段落から第4段落)。その引用部分は,

”Das Arbeitsvermögen (puissance de travail) begreifen, während man von den Subsistenzmitteln der Arbeit während des Produktionsprozesses abstrahiert, heißt ein Hirngespinst (être de raison) begreifen. Wer Arbeit sagt, wer Arbeitsvermögen sagt, sagt zugleich Arbeiter und Subsistenzmittel, Arbeiter und Arbeitslohn.“

(このドイツ語は,cap1.pdf (utah.edu)から借りた)である。

 ロッシのフルネームはWikipediaによるとペッレグリーノ・ロッシ - Wikipediaで,イタリアに生まれ,フランスへ亡命し,途中ジュネーブ市に帰化を認められたがフランスに戻り,最後は駐教皇領大使としてローマに渡り,階段で首を刺されて殺害されたとある。ロッシが生きていた時代は1787年から1848年で,「資本論」で引用している彼の著作は1843年とあるが,WikipediaではCours d'économie politique(1838年 – 54年)とある。現在は便利なことに,この本はGoogleで電子化されたものが見つかる。

Cours d'économie politique - Pellegrino Rossi - Google ブックス

この本はフランス語で書かれていて,1843年にブリュッセルではなくパリで出版されたもののようだ。なお,上記のものは第2巻で,第1巻もあるようだ。

 マルクスは1843年からパリに,1845年からはブリュッセルに,さらに1848年から1849年にフランスとドイツを行き来し,1849年にイギリスに入国するから,マルクスはほぼ同時代の人間としてロッシの著作をブリュッセルで目にしたのであろう。ロッシの本はフランス語で書かれ,学者だけでなく多くの人に読まれて影響力をもっていたのかもしれない。それゆえ,マルクスは「資本論」においてロッシの文を取り上げて,彼の理解を誤りとして取り上げて批判したものと想像する。また,「資本論」で引用されている文は,「資本論」がドイツ語で書かれているので,引用の際にマルクス自身がフランス語からドイツ語へ翻訳したのではないかと思われる。

 さて,そこで問題としたいのは,ロッシの文章のマルクスによるドイツ語への翻訳である。マルクスはフランス語を理解し,ロッシが何を主張していたかも正確に理解していたであろう。そのドイツ語訳もそれなりのものであると想像されるが,しかしながら上記のロッシの引用の中で,2か所フランス語が括弧付きで示されている。

 1つ目がpuissance de travailで,2つ目がêtre de raisonである。次にそれぞれの箇所について検討してみる。

 まずpuissance de travailであるが,こちらのマルクスの訳はArbeitsvermögenである。このドイツ語のArbeitsvermögenを大月書店の「資本論」(普及版)では労働能力と訳している。また普及版でも元のドイツ語の「資本論」と同様に(puissance de travail)と原文のまま書かれていて,これは日本語に訳されていない。では,puissance de travailの日本語訳は何かというと,excite翻訳でもGoogle翻訳でも作業力となる。ちなみにこれらの翻訳を使ってドイツ語への翻訳を試みると,Arbeitskraftと出る。Arbeitskraftは労働力であり,「資本論」でお馴染みのタームである。

 次に,être de raisonは「資本論」では,マルクスはHirngespinstと”訳”している。さらにドイツ語のHirngespinstの日本語訳は,「資本論」(普及版)では”妄想”と訳されている。ではフランス語の方はというと,上記の翻訳を使うとêtre de raisonはそれぞれ”理由がある”,”正しいこと”と出る。ちなみに語順を逆さにしたraison de êtreは,”存在する理由(レーゾンデートル)”であるのは良く知られた話である。マルクスが”訳”した”妄想”と,”正しいこと”あるいは”理由がある”はあまりに意味が違うのではないか。

 そこで疑問なのだが,なぜマルクスは2か所について原文のフランス語を示したのであろうか?たまたまなのか?もちろんそのような事はないだろう。

 一つ目のArbeitsvermögenとpuissance de travailは,それぞれを日本語にすると労働能力,作業力となって,大きな違いは一見感じられない。Arbeitsvermögenという用語を「資本論」第1部内でcap1.pdf (utah.edu)に対して検索をすると6か所しかない。ところがpuissance de travailのあり得るドイツ語訳となるArbeitskraftは検索では517か所も出てくる。「資本論」では労働力という用語が重要な用語であるのは言うまでもないだろう。そこで推測だが,ロッシの使用するpuissance de travailは,単純に訳すとArbeitskraftになってしまうが,ロッシが意味するpuissance de travailと,マルクスが意味するArbeitskraftとは異なるので,あえて異なるArbeitsvermögenとし,ただちょっとマルクスとしても後ろめたさがあって(puissance de travail) を付加したのではないだろうか?

 次にHirngespinstとêtre de raisonであるが,それぞれは”妄想”と”正しいこと”であり,ほぼ正反対の意味である。ほとんど”誤訳”と言って良いほどに思われる。それが,このマルクスが引用したロッシの文章を理解不能に思われるものとしており,紙屋研究所

『資本論』にでてくるabstraction

『資本論』にでてくるabstraction(続き)

というブログを書いてしまう遠因になっている。なお,紙屋研究所での上記のブログの解釈はドイツ語の文法を考えれば成立しない話であり,この点はIkimono-Nigiwai氏の指摘で尽きている。では,なぜマルクスは”誤訳”をしたのだろうか?その理由は分からない。ここであえて推測をすると,マルクスのいたずらではないかと思う。マルクスは皮肉屋である。その彼が誤ったことが分かっている文について,たとえ引用であったとしてもそのまま書きたくなかったのではないだろうか?そこで,あえて”誤訳”し,マルクスが考えるところの”真の意味”に”変換”し,ただそれでは後ろめたいので,原文のフランス語を付けたのではないだろうか?なお,ロッシの原文については,Cours d'économie politique - Pellegrino Rossi - Google ブックスマルクスの引用に該当するフランス語の箇所を見ても妄想に相当する言葉がどこにも出てこない。ロッシは波乱の生涯を送ったと言えるが,その経歴からは体制側であったとも言え,徹底的に反体制派であったマルクスのように皮肉屋になる必要はなかっただろう。

 ここで提案であるが,「資本論」の当該の日本語訳において,マルクスが括弧書きで付加したフランス語も日本語に訳すべきではないだろうか?私も含めて決して多くの日本人がフランス語を理解するものではないだろう。

 なお,マルクスが書いた文章が必ずしも意味的に筋が通ったものばかりであるとは限らないと想像されるが,しかしドイツ語の文法は英語以上にしっかりしたものであるので,翻訳にあたってはマルクスの文章が意味が通っていないと思われても文法を頼りとして訳し,どうしても気になるのなら訳注などを付ければ良いのではないかと思われる。翻訳者はあくまで翻訳者であり,翻訳者が仮に理解できなくても著者の意図を尊重すべきである。著者の意図を翻訳者が完全に掴み切れるとは限らないからである。