ロッシはなにを考えていたか

 前回のブログの記事の続きになるが,「資本論」においてマルクスはロッシの言説を批判している。しかし,「資本論」を読んで,マルクスがロッシの何を批判しているのかが分かり難い。それが,この間の記事で取り上げた問題の背景にある。ロッシの主張は,彼の著書で展開されているのだから,ロッシ自身が何を主張していたかは彼の本を読めば分かるはずである。しかし私にはロッシのフランス語の著書を読む能力はなく,さらにフランス語を学ぶ気力もない。そこで,マルクスの文章から,ロッシがどのように考えており,マルクスはロッシのどのような考えを批判したのかを探りたい。

 そしてずばり,マルクスのロッシへの批判をより詳しく理解することができる資料がある。マルクスのGrundrisse(経済学批判要綱)であり,その中にマルクス資本論に引用したロッシの文そのものも書かれている。該当する経済学批判要綱の日本語訳は,新MEGAに基づいたものとして,「経済学批判要綱 第二分冊」『マルクス 資本論草稿集②』(資本論草稿集翻訳委員会訳, 大月書店,1993年)から出版されており,同書の「Ⅲ 資本にかんする章(続き)」の「剰余価値および利潤についての諸学説」の中でマルクスによるロッシの著書からの抜き書きと,批判がなされた部分が精密に訳されている(同書305頁-312頁)。以下,この部分から,ロッシが何を主張し,マルクスがどのような批判をしていたのかを,同書からのロッシの主張とマルクスの批判を対照的に見てみる。

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(ロッシの『経済学講義』の主張)

「社会的進歩は,すべての協働を解体することにはありえず,過去の強制的,抑圧的な協働を解体することにはありえず,過去の強制的,抑圧的な協働を自発的かつ公正な協働におきかえることにある。」(同書305頁上段)

マルクスの批判)

「資本にあっては,労働者の協働は直接的な物理的強力,つまり強制労働,賦役労働,奴隷労働によって強制されているのではない。それは,生産の諸条件が他人の所有物であること,そしてこの諸条件がそのものが客体的な協働として現存しているー(略)ーことによって強制されているのである。」(同書305頁上段から下段)

(私の理解)

 私の理解でまとめると,ロッシが労働者が自発的に協働を始めたと”能天気”に主張していることに対して,マルクスは生産手段の私的所有という,まさに資本主義の仕組みによって,労働者の協働が労働者に対して強制されたと主張している。歴史を見れば,どちらが正しいかは明らかであろう。

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 マルクスは,当時の経済学者たちが,資本というものが経済的形態(あるいは経済的関係,あるいは所有関係と言い換えても良いかもしれない)としてあることを見ずに,資本を素材的側面である生産用具としてしか見ていないことを批判している。ロッシもその例に漏れない。

(ロッシの主張)

「原料はほんとうに生産用具なのだろうか。むしろ,生産する用具がはたらきかけるべき対象ではないだろうか」(同書305頁後段)

マルクスの批判)

「つまりここでは,資本は彼にとって技術学的な意味での生産用具とまったく一致している。ー(略)ー原料は,それ自身がまた生産物である用具と同じく,生産のために用いられる。」(同書306頁上段)

(私の理解)

 ロッシは,資本の経済的形態を見ずに,資本をまさに素材としての生産用具と同一視している。その流れで,原料が生産用具に入るのか,あるいは入らないのかという混迷に陥っている。対してマルクスは,生産用具(マルクスにあっては労働手段)と原材料(同,労働対象)はいずれも生産に用いられる手段であり,同じ生産手段の要素になる。労働手段自身も過去の労働の生産物であった。しかし,ロッシにあっては,資本を生産用具と同一視したために,原料を生産用具とするのか否かに応じて,資本に属するのか,属さないかという混乱の問題が生じてしまった。

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 続いて,ロッシが資本を経済的形態と見ずに,生産用具であると見なしてしまったことによって,賃金が資本の一部と見なすべきなのか,見なさないべきなのかという,これまた混迷を”導いて”しまっている。なお先回りすると,ロッシは賃金を資本の一部とは見なさないという”結論”を導いている。

(ロッシの主張)

「労働者の報酬は,資本家がそれを労働者に前貸しするのだから,資本なのだと言われる。ー(略)ー労働者は資本家に次のように言うことができるであろう。君は共同の仕事に資本を前貸しする。私は労働をそれに提供する。生産物は私と君のあいだでこれこれの割合で分配されるであろう。生産物が実現されれば,それぞれが自分の分け前をとるであろう」(同書306頁下段)

 しかし,ロッシは賃金が資本に属するという主張に同意していないと思われる。続いてロッシは言う。

「労働者は,仕事がないあいだでさえ消費するであろう。彼らが消尽するであろうものは,消費ファンドに属するものであって,資本に属するものではけっしてない。したがって,賃金は生産の構成要素ではない。ー(略)ー資本,労働,土地は,生産のために必要不可欠である。第二に,賃金という言葉が二つの意味で使われている。賃金は資本であると言われるが,しかし,賃金はなにを表すのか。労働である。賃金と言うのは労働と言うことであり,労働と言うのは賃金と言うことである。」(同書306頁下段から307頁上段)

 ここで,ロッシは労働を賃金と同一視してみる。そして,賃金を資本であるとするならば,労働も資本の一部となり,生産のために必要なものは,資本,労働,土地ではなくて,資本,土地だけになってしまうと言っている。ロッシとしては,賃金を資本に属するとすると,矛盾が生じることを主張したいようである。すなわち,賃金は資本に属するものではないと言うのが,ロッシの主張ではないか。

「結局のところ,労働者が消尽するのは資本家の財ではなくて,彼自身の財である。彼にたいして労働の報酬として与えられるものは,生産物のうちの彼に属する分割部分なのである。」(同書307頁上段)

さらにロッシの引用で,

「資本家が労働者と取り結ぶ契約は生産の現象の一つではない。ー(略)―つまり,賃金は富の分配の一形態なのであって,生産の要素ではないのである。ファンドのうちで,企業家が賃金の支払にあてる部分は,資本の一部を成すのではない。」(同書307頁上段)

 ということで,ここでロッシが主張することが明確になった。賃金は富(生産物と言ってよいだろう)の分配に属することで,資本に属するものではないと言っている。従ってロッシの主張に沿えば,資本とは生産用具であり,賃金は,あるいは労働者への分け前は,生産用具ではないことになる。少し混乱するのは,「労働と言うのは賃金と言うことである」という主張であるが,ロッシは賃金は労働との交換物であると考える。またロッシにとって生産に必要なものを生産用具とし,生産に必要なものとして,資本,労働,土地とロッシはなお考えている。繰り返すが,資本はロッシにあっては経済的形態ではなく,素材的側面としてだけ考えた生産用具であろう。

 ここで,「資本論」にマルクスが引用したロッシの文が出てくる。

「生産の仕事をしているあいだの労働者の生存手段を捨象しながら労働の力〔Macht〕を考えることは,空想的存在を考えることである。労働と言うのは,労働の能力と言うのは,同時に,労働者および賃金ということである。・・・・同じ要素が資本の名のもとにふたたび現われる。あたかも,同一のものが二つの異なった生産用具に同時に属しうるかのように。」

 それ以前の引用されたロッシの文章は分かる気がするが,このロッシの文章(とその訳)は分かり難い。そこで,分かりやすそうな後ろから解釈をしてみる。最後の文の「同一のもの」は,賃金を指すのであろう。「二つの異なった生産用具」とは,前のロッシの主張からすると,労働と資本ではないか。そうすると,最後の文は,賃金は労働に属するように見え,また賃金は資本に属するかのように見える,とロッシは言っていると思われる。ロッシとしても,同じものが異なった生産用具に属するのは矛盾であると考えていると推測する。さらに一つ前の文に移って,「同じ要素」とは,賃金,そしてロッシの上記の議論の展開にあっては労働と労働の力のことであり,これらは実は同じ要素であり,これが資本に属すると再び言われてしまうと,ロッシなりに批判している。

 そして最初の文の解釈を考える。「労働者の生存手段」というのは,労働者が生きていくために必要な物品と言って良いのではないか。これはまた労働者へ支払われる賃金(なお,ロッシは賃金という形式では必ずしもないとし,生産物の”分け前”とも言っている。しかし労働者が提供する労働に見合った分け前とはなっていないのが通例であるのを知らない人はいないだろう。)と言って良いであろう。また,同書では「捨象」と訳されているが,無視すると訳してもよいだろう。そして「生産の仕事をしているあいだ」ということは生産過程であろう。さらに,「労働の力」はロッシの時代の経済学者にあっては,労働も労働の力も区別がなかったのだから,労働でも同じであろう。すると,最初の文の前半は,”生産過程において,労働者への賃金のことを無視して労働のことを考えること”と言い換えられるのではないか。そして最初の文の後半が,「空想的存在を考えること」なのだが,ロッシの原文のフランス語と,マルクスによるドイツ語への”訳語”にずれがあるのではないか思われるのだが,この訳語において否定的な意味ととるか,肯定的な意味ととるのかがはっきりしない。

 草稿でマルクスが引用したロッシの文章から解釈すると,ロッシの主張としては,労働者への賃金(ロッシでは分け前とも)は生産には直接に結ぶ付かない。分け前(分配)は生産が終了した後の段階で生じるのである。そうすると,”生産過程において,労働者への分け前のことを無視して労働のことを考えること”は,ロッシの主張としては必ずしも否定的とは言えないだろう。むしろ肯定ではないか。すると,「空想的存在」ということは,解釈としては肯定ととるべきではないだろうか。「空想的存在」はロッシのフランス語の著書では,"être de raison"なのだが,googleのフランス語翻訳を使って日本語に訳すと,「正しいこと」と出る。ただ,原文では不定冠詞が付いており,"un être de raison"とすると,「理性の存在」となる。同じ翻訳サイトで,日本語ではなく英語に訳すと,不定冠詞なしでは,"to be right"となるが,不定冠詞付きでは,"a being of reason"となる。検索をすると,フランス語のサイト(Être de raison - Spinoza et Nous)で,"un être de raison"はスピノザの著書の"Pensées métaphysiques(形而上学的思想)"に由来するという説明も見つかるのだが,「すでに理解されていることをより簡単に保持し、説明し、想像するのに役立つ考え方」という説明もある。ロッシの時代にあって,"un être de raison"がどのような意味が使われていたかは私では知る由もないが,この説明に従うならば"un être de raison"を肯定的な意味にとって良いのではないだろうか。

 すると,ロッシの"un être de raison"は,資本論マルクスがドイツ語に訳した「妄想」とは矛盾するのだが,その理由は前の記事で推測した。

 以上で,少なくとも「資本論」に引用された箇所についてロッシがなにを考えていたかについて,マルクスの批判を通じてではあるが私なりに理解できたのではないかと思う。

 このマルクスによる草稿では,この後さらにロッシへの批判に加えてマルクスによる資本の解明がされているが,せっかくマルクスの草稿の一部を読んだので,私なりの理解をまとめてみたい。

 ロッシはなにを混同し,そして混迷してしまったのであろうか。

 一つにはロッシ(および当時の正統経済学)が資本の経済的形態を見落とし,資本を技術的素材としての生産用具としてしか見なしていなかった。その結果,労働者(正確には労働力の購入)に支払われる賃金が,資本の一部(より正確には資本の一部が充てられたもの)と見なせないという”珍説”を導いてしまった。もちろん現実の過程を見れば,資本の一部は労働力の買い入れに充てられるのである。ロッシにあってはこの”珍説”を避けるために,賃金は資本の一部ではなく,賃金は生産が終わった後での分け前であるとしようとしている。これが,マルクスが「資本論」で引用したロッシの”珍説”あるいは混乱であろう。すなわち,労働を資本とは独立な生産用具の要素として並列させている。なおロッシは土地も独立な生産用具の要素としている。マルクスは,ロッシが労働者の労働というものを,労働者の”自主的な”協働とみなし,賃労働という形態を消し去ったと,ロッシを批判している。しかし,資本と賃労働はどちらかが独立に存在するものではなく,表裏一体のものである。

 またロッシにあっては,労働力と労働の区別ができていない。このことが,賃金が資本の一部であるとロッシ(およびその当時の正統経済学)が理解できない理由の一つになっている。

 さらにロッシは,剰余価値がなにによって生じるかが理解できていない。ロッシにあっては生産に必要なものは資本,労働,土地という3つの要素であると考えている。そしてロッシは,資本,労働,土地それぞれが価値を生み出すと考えているのであろう。しかし価値を生み出すものはもちろん労働のみであり,資本自体も過去の労働が蓄積されたものである。また土地は価値を生み出さない。

 おまけにまとめとして,マルクスの言うところを大胆にも私の理解でまとめると,資本は労働力と労働手段と労働対象から構成される生産手段に変化し,労働力が使用されて労働がなされることで,労働手段と労働対象が結合されて生産物が生産される。そして生産物の販売を通じて資本に戻る。生産物には生産手段の消費に相当する価値と労働力の維持および再生産に相当する価値が再現するだけでなく,剰余価値も新たに加わって,販売を通じてより大きな資本となって還ってくる。また,労働者に支払われる賃金は,その賃金が消費されることで労働者の維持および再生産がなされ,労働力として資本に再び使用されることになる。資本家が労働者に支払う賃金(資本の一部)は,労働力の買い入れとして”消費”されるだけでなく,労働者が賃金を消費することで労働力として再び資本の前に戻ってくるのである。そして剰余価値は資本(擬人的には資本家)にのみ帰属するというのが資本主義である。その理由は,形式的には生産用具(のそれぞれの要素)が価値を生むものとされ,資本と労働がロッシと同様に独立のものとしてなお現在の資本主義ではしばしば”妄想”されているのではないか。しかしロッシが生産用具の一つとした資本は,実は過去の労働の蓄積であり,決して労働と独立のものではない。

 以上,マルクスのロッシに対する批判を見たが,160年ほどの前のマルクスのロッシへの批判は,「新しい資本主義」などが標榜される現在の資本主義下に暮らす人々にとっても,しばしば陥りがちな自らの”妄想”への批判としても通じるものがあるのではないだろうか。