フランス語版資本論「第六章 労働力の売買」から,こだわりのロッシの引用部分を考える

 全体を読んだわけでもないのに恐縮であるが,フランス語版資本論の日本語訳の読み易さはずば抜けているのではないか。同書の上巻の訳者解題を読むと,フランス語版資本論は,『マルクスがみずからドイツ語第二版に筆を加えて,ジョゼフ・ロアにフランス語文に翻訳させ,このロアの訳文を「全面的に校閲」したうえで,パリのラシャトル社から刊行したものである』とある。その「全面的に校閲」の意味は,マルクス自身がフランス語版へ「読者へ」とするあとがきで,『この書き換え〔あまりにも直訳すぎるロア訳の改訂〕は,毎日のようになされた・・・・』ということである。この話からの想像だが,ロアの最初の”直訳”は,我々の日本語訳の資本論のように”ごつごつ”したものであったのではなかろうか。マルクスにとって第2外国語のロアの”直訳”のフランス語がどのように見えたかは知る由もないが,マルクス自身の母国語から少し距離が取れたことで,自著を客観視できたのではないかと想像される。

 そこで,この間こだわりのロッシの文章であるが,彼の文章が引用されているのは,フランス語版資本論では「第六章 労働力の売買」であるが,そこから問題の文章を抜き出してみる。

 『労働力のこの価値規定を粗雑であると見なして,たとえばロッシとともに次のように叫ぶのは,理由もなしに,またきわめて安っぽく,感傷にふけることである。「生産行為中の労働者の生活手段を無視しながら労働力を頭に描くことは,空想の産物を頭に描くことである。労働と言う人,労働能力と言う人は,それと同時に,労働者と生活手段,労働者と賃金,と言っているのである」。これにまさる誤りはない。労働能力と言う人は,まだ労働は言っていないのであって,それは消化能力が消化を意味しないのと感じである。そうなるためには,誰も知っているように,健康な胃の腑以上のあるものが必要である。労働能力と言う人は,労働能力の維持に必要な生活手段を少しも無視していない。むしろ,生活手段の価値は,労働能力の価値によって表現されているのだ。だが,労働者は,労働能力が売れなければそれを光栄と感じないのであって,むしろ,自分の労働能力がその生産のためにすでに若干量の生活手段を必要としたこと,その再生産のためにまたも絶えず若干量の生活手段を必要とするということを,残酷な自然的必然性として感じるであろう。彼のばあい,シスモンディとともに,労働能力は売られなければなにものでもない,ということを発見するであろう。』江夏美千穂、上杉聰彦訳、上巻,法政大学出版局、1980年4月初版第3刷、161-162頁)

 どうだろう。フランス語の語学力がないので,フランス語としてどうであるかは判断できないが,日本語訳は自然な日本語でなかろうか。自然である理由は,日本語への翻訳者が優れているだけではなく,フランス語でも自然な文章なのかもしれないと想像する。

 マルクスのロッシの著書からの引用された文章も,ロッシ自身の著作がフランス語であったので,引用された文章はロッシのフランス語の原文そのものであり,ドイツ語版にあったフランス語の単語の挿入も,フランス語版資本論ではない。

 だが,ロッシの引用された文章の日本語訳およびその部分だけでの意味は,やはり分かり難いと思う。

 ということで,資本論マルクスがロッシのなにを批判しているか,この文章を分析的に見てみる。

 マルクスが引用したロッシの文章の前半は「生産行為中の労働者の生活手段を無視しながら労働力を頭に描くことは,空想の産物を頭に描くことである。」であると日本語に訳されている。紙屋研究所が問題とした”abstraction”は,”無視する”と訳されている。この単語の訳に全く異議はない。しかし次の"c'est concevoir un être de raison"に該当する部分は,”空想の産物を頭に描くこと”と訳されている。フランス語の専門家も関与して訳されたものであるから,ケチを付けるのは恐れ多いが,翻訳者自身が訳者解題で,「必要に応じて現行のディーツ版および現行の英語版等々を参照し」とあるので,ドイツ語版およびその翻訳の影響を受けているとも想像できないだろうか。この文章にある「空想の産物を頭に描くこと」は,肯定的なことを意味しているとはとれない。「空想の産物」は,ロッシにとっても現実のものではないだろう。では本当に「空想の産物を頭に描く」という訳は適切であったのであろうか?

 さらに分析を試みる。このロッシの文章に対して,マルクスの批判に対応する文章は「労働能力と言う人は,労働能力の維持に必要な生活手段を少しも無視していない。」であろう。すなわち,マルクスは,労働能力の維持に必要な生活手段を無視するなと言っているのである。そうすると,このマルクスの批判の反対の意味から,ロッシは労働能力の維持に必要な生活手段を無視せよ,と言っていたとはなるのではないか。少し言葉を補ってストレートに言うと,生産過程においては労働能力の維持に必要な生活手段を考えるな,とロッシは言っていたのではないか。まだ分かり難いかもしれないが,「経済学批判要綱」でのマルクスの抜き書きで詳細を見たように,ロッシは労働者の”賃金”を,生産物が作られた後の分け前と見なし,労働力の対価とは見なさないと主張していた。なぜなら,賃金を労働力の対価と見なすと,賃金の出どころは資本であり,結局,(資本の一部)=(賃金)=(労働力)という流れで,労働力(労働力と労働の区別はロッシはできていない)は資本の一部であるという図式が成り立ち,その当時のロッシも含めた経済学者が考えていた生産用具の三要素である資本,労働,土地という図式と矛盾して,生産用具で独立なものは資本と土地だけになってしまうからである。ロッシは資本というものの経済的形態を見ずに,技術的な意味での生産用具としてしか見ておらず,労働力が資本の一部になってしまうことに同意できなかった。

 そしてロッシの文章の後半,「労働と言う人,労働能力と言う人は,それと同時に,労働者と生活手段,労働者と賃金,と言っているのである」を見てみよう。この文章だけではロッシが何を言っているか判然としないとも思われるが,これこそがまさにマルクスの言うところのロッシの叫び(ロッシの非難,あるいは嘆きと言った方が良かったかもしれない)であった。「経済学批判要綱」ではロッシのこの後の文章も抜き書きされており,「資本論」では引用されていないが,それは「同じ要素が資本の名のもとにふたたび現われる。あたかも,同一のものが二つの異なった生産用具に同時に属しうるかのように。」である。ロッシの主張をストレートに言うと,(労働力)=(生活手段),あるいは(労働力)=(賃金)と考えることは間違いで,そんなことをしたら労働(繰り返すが,ロッシには労働と労働力の区別がない)は資本の一部になってしまうと,そんな考えはだめだ,とロッシは叫んでいたのである。

 ちなみに「経済学批判要綱」では,賃金という言葉の分析もマルクスは行っている。資本家が支払う賃金は労働力商品を購入するためのものであり,労働者が受け取った賃金は労働者が生活手段を購入して消費してしまうものである。賃金という言葉が,資本家の支払と,労働者の受取で現れるが,労働者が受け取った”賃金”で購入するものは彼らの生活手段だが,賃金というものを労働力を購入するものと厳密に定義すれば,労働者が受けとったものはもはや賃金ではない。労働者が受け取った”賃金”は彼らの生活手段を購入するものである。「経済学批判要綱」の議論はまわりくどく思われたが,資本と賃労働という概念を明確に把握した経済学者はマルクス以前にはいなかったわけで,マルクスの苦労が現れている。なお,ロッシは賃労働について理解しておらず,労働者たちは自発的に協働を行っており,労働者が受け取る”賃金”は生産物の分け前であると見なしていた。ロッシには資本と賃労働者という経済学的な関係が全く見えていなかったのである。

 ということで今回も長々とした文章になったが,私の結論は「空想の産物を頭に描くこと」という訳は,むしろ「正しいこと」というように訳すべきである。またマルクスの「資本論」へのロッシの文章の引用も舌足らずであった。「労働と言う人,労働能力と言う人は,それと同時に,労働者と生活手段,労働者と賃金,と言っているのである」は確かにロッシの嘆き,あるいは非難であるが,これだけの引用ではロッシが何を非難しているかを掴むのは当時であっても難しかったのではないか。あるいはその当時はロッシの主張はよく知られていたのであろうか。もし「資本論」を”改訂”できるなら,「経済学批判要綱」にマルクスが抜き書きしたようにもう少しロッシの文章を補うべきである。