フランス語版資本論「第六章 労働力の売買」から,こだわりのロッシの引用部分を考える

 全体を読んだわけでもないのに恐縮であるが,フランス語版資本論の日本語訳の読み易さはずば抜けているのではないか。同書の上巻の訳者解題を読むと,フランス語版資本論は,『マルクスがみずからドイツ語第二版に筆を加えて,ジョゼフ・ロアにフランス語文に翻訳させ,このロアの訳文を「全面的に校閲」したうえで,パリのラシャトル社から刊行したものである』とある。その「全面的に校閲」の意味は,マルクス自身がフランス語版へ「読者へ」とするあとがきで,『この書き換え〔あまりにも直訳すぎるロア訳の改訂〕は,毎日のようになされた・・・・』ということである。この話からの想像だが,ロアの最初の”直訳”は,我々の日本語訳の資本論のように”ごつごつ”したものであったのではなかろうか。マルクスにとって第2外国語のロアの”直訳”のフランス語がどのように見えたかは知る由もないが,マルクス自身の母国語から少し距離が取れたことで,自著を客観視できたのではないかと想像される。

 そこで,この間こだわりのロッシの文章であるが,彼の文章が引用されているのは,フランス語版資本論では「第六章 労働力の売買」であるが,そこから問題の文章を抜き出してみる。

 『労働力のこの価値規定を粗雑であると見なして,たとえばロッシとともに次のように叫ぶのは,理由もなしに,またきわめて安っぽく,感傷にふけることである。「生産行為中の労働者の生活手段を無視しながら労働力を頭に描くことは,空想の産物を頭に描くことである。労働と言う人,労働能力と言う人は,それと同時に,労働者と生活手段,労働者と賃金,と言っているのである」。これにまさる誤りはない。労働能力と言う人は,まだ労働は言っていないのであって,それは消化能力が消化を意味しないのと感じである。そうなるためには,誰も知っているように,健康な胃の腑以上のあるものが必要である。労働能力と言う人は,労働能力の維持に必要な生活手段を少しも無視していない。むしろ,生活手段の価値は,労働能力の価値によって表現されているのだ。だが,労働者は,労働能力が売れなければそれを光栄と感じないのであって,むしろ,自分の労働能力がその生産のためにすでに若干量の生活手段を必要としたこと,その再生産のためにまたも絶えず若干量の生活手段を必要とするということを,残酷な自然的必然性として感じるであろう。彼のばあい,シスモンディとともに,労働能力は売られなければなにものでもない,ということを発見するであろう。』江夏美千穂、上杉聰彦訳、上巻,法政大学出版局、1980年4月初版第3刷、161-162頁)

 どうだろう。フランス語の語学力がないので,フランス語としてどうであるかは判断できないが,日本語訳は自然な日本語でなかろうか。自然である理由は,日本語への翻訳者が優れているだけではなく,フランス語でも自然な文章なのかもしれないと想像する。

 マルクスのロッシの著書からの引用された文章も,ロッシ自身の著作がフランス語であったので,引用された文章はロッシのフランス語の原文そのものであり,ドイツ語版にあったフランス語の単語の挿入も,フランス語版資本論ではない。

 だが,ロッシの引用された文章の日本語訳およびその部分だけでの意味は,やはり分かり難いと思う。

 ということで,資本論マルクスがロッシのなにを批判しているか,この文章を分析的に見てみる。

 マルクスが引用したロッシの文章の前半は「生産行為中の労働者の生活手段を無視しながら労働力を頭に描くことは,空想の産物を頭に描くことである。」であると日本語に訳されている。紙屋研究所が問題とした”abstraction”は,”無視する”と訳されている。この単語の訳に全く異議はない。しかし次の"c'est concevoir un être de raison"に該当する部分は,”空想の産物を頭に描くこと”と訳されている。フランス語の専門家も関与して訳されたものであるから,ケチを付けるのは恐れ多いが,翻訳者自身が訳者解題で,「必要に応じて現行のディーツ版および現行の英語版等々を参照し」とあるので,ドイツ語版およびその翻訳の影響を受けているとも想像できないだろうか。この文章にある「空想の産物を頭に描くこと」は,肯定的なことを意味しているとはとれない。「空想の産物」は,ロッシにとっても現実のものではないだろう。では本当に「空想の産物を頭に描く」という訳は適切であったのであろうか?

 さらに分析を試みる。このロッシの文章に対して,マルクスの批判に対応する文章は「労働能力と言う人は,労働能力の維持に必要な生活手段を少しも無視していない。」であろう。すなわち,マルクスは,労働能力の維持に必要な生活手段を無視するなと言っているのである。そうすると,このマルクスの批判の反対の意味から,ロッシは労働能力の維持に必要な生活手段を無視せよ,と言っていたとはなるのではないか。少し言葉を補ってストレートに言うと,生産過程においては労働能力の維持に必要な生活手段を考えるな,とロッシは言っていたのではないか。まだ分かり難いかもしれないが,「経済学批判要綱」でのマルクスの抜き書きで詳細を見たように,ロッシは労働者の”賃金”を,生産物が作られた後の分け前と見なし,労働力の対価とは見なさないと主張していた。なぜなら,賃金を労働力の対価と見なすと,賃金の出どころは資本であり,結局,(資本の一部)=(賃金)=(労働力)という流れで,労働力(労働力と労働の区別はロッシはできていない)は資本の一部であるという図式が成り立ち,その当時のロッシも含めた経済学者が考えていた生産用具の三要素である資本,労働,土地という図式と矛盾して,生産用具で独立なものは資本と土地だけになってしまうからである。ロッシは資本というものの経済的形態を見ずに,技術的な意味での生産用具としてしか見ておらず,労働力が資本の一部になってしまうことに同意できなかった。

 そしてロッシの文章の後半,「労働と言う人,労働能力と言う人は,それと同時に,労働者と生活手段,労働者と賃金,と言っているのである」を見てみよう。この文章だけではロッシが何を言っているか判然としないとも思われるが,これこそがまさにマルクスの言うところのロッシの叫び(ロッシの非難,あるいは嘆きと言った方が良かったかもしれない)であった。「経済学批判要綱」ではロッシのこの後の文章も抜き書きされており,「資本論」では引用されていないが,それは「同じ要素が資本の名のもとにふたたび現われる。あたかも,同一のものが二つの異なった生産用具に同時に属しうるかのように。」である。ロッシの主張をストレートに言うと,(労働力)=(生活手段),あるいは(労働力)=(賃金)と考えることは間違いで,そんなことをしたら労働(繰り返すが,ロッシには労働と労働力の区別がない)は資本の一部になってしまうと,そんな考えはだめだ,とロッシは叫んでいたのである。

 ちなみに「経済学批判要綱」では,賃金という言葉の分析もマルクスは行っている。資本家が支払う賃金は労働力商品を購入するためのものであり,労働者が受け取った賃金は労働者が生活手段を購入して消費してしまうものである。賃金という言葉が,資本家の支払と,労働者の受取で現れるが,労働者が受け取った”賃金”で購入するものは彼らの生活手段だが,賃金というものを労働力を購入するものと厳密に定義すれば,労働者が受けとったものはもはや賃金ではない。労働者が受け取った”賃金”は彼らの生活手段を購入するものである。「経済学批判要綱」の議論はまわりくどく思われたが,資本と賃労働という概念を明確に把握した経済学者はマルクス以前にはいなかったわけで,マルクスの苦労が現れている。なお,ロッシは賃労働について理解しておらず,労働者たちは自発的に協働を行っており,労働者が受け取る”賃金”は生産物の分け前であると見なしていた。ロッシには資本と賃労働者という経済学的な関係が全く見えていなかったのである。

 ということで今回も長々とした文章になったが,私の結論は「空想の産物を頭に描くこと」という訳は,むしろ「正しいこと」というように訳すべきである。またマルクスの「資本論」へのロッシの文章の引用も舌足らずであった。「労働と言う人,労働能力と言う人は,それと同時に,労働者と生活手段,労働者と賃金,と言っているのである」は確かにロッシの嘆き,あるいは非難であるが,これだけの引用ではロッシが何を非難しているかを掴むのは当時であっても難しかったのではないか。あるいはその当時はロッシの主張はよく知られていたのであろうか。もし「資本論」を”改訂”できるなら,「経済学批判要綱」にマルクスが抜き書きしたようにもう少しロッシの文章を補うべきである。

 

動詞性名詞としてabstractionをとらえてみる

 Wikipediaはありがたい。辞書を引かなくても簡単に探しているものにとりあえず行きつける。今回そう思った理由は,名詞にもいろいろあると思って,「名詞」を引いたからである。

 そして「名詞」のWikipediaを引くと,「狭義の名詞」という説明があり,分類として,「普通名詞」,「固有名詞」,「形式名詞」,「動詞性名詞・サ変名詞」とある。この中で「普通名詞」の例として「犬」「ピアノ」「時代」が挙げられており,一方「動詞性名詞」の例として「勉強」「希望」「テスト」が挙げられている。このWikipediaの説明は日本語の名詞を対象として説明されているが,他の言語でも名詞の中の分類は恐らくあるのだろう。

 そう思って英語の"Noun"をWikipediaで引くと, the name of "a specific object or set of objects", "such as living creatures", "places", "actions", "qualities", "states of existence", or "ideas"と分類している。さらにそれらの説明として,

actions and states of existence can also be expressed by verbs 

qualities by adjectives

places by adverbs

とある。

 同じ名詞と言ってもそれぞれの名詞はいろいろな品詞と繋がっている。一方我々は名詞に対して,名詞という品詞で一括りにしてみてしまうが,はたしてこのように他の品詞とは異なる一つの品詞としてよいのであろうか?そう思うのは,名詞という一つの括りにしてしまうと,大事なことを見過ごすのではないかと思うからである。

 実はこう考えた本当の理由になるのだが,この間執拗に問題にしている"abstraction"は,名詞のどの分類に対応するのかを考えてみた。専門家が(そのような専門家がいればだが)どのように分類するのか分からないが,私の考えではabstractionは動詞(verb)で表現される名詞ではないかと思う。そうであるとするならば,abstaractionは,abstractという行為を意味しているのであろう。

 また,abstractの日本語の訳では,しばしばお世話になっているWeblioの動詞(他動詞)では,

1

〔+目的語(+from+()名詞)〕〈ものを〉〔…から取り出す抽出する抽象する.

 

2

〔+目的語(+from+()名詞)〕《婉曲》〈ものを〉〔…から抜き取る盗む.

 

3

/[N16-A12C][N16-A12B]/〈…を〉要約する.

 

とある。これを見ると,英語は1つの単語でいろいろな意味を表し,英語では日本語と異なり1つの単語で場合によって意味をいろいろ使い分けなければならないのか,などと思ってしまうが,実はそれは違うのではないか。abstractを動詞としてみるならば,未分類な曖昧な混沌としたものから,本質を選び出すという行為を意味しているのではないだろうか。本質を選び出すということは,本質となるものと,本質とならないものに篩い分けると言うことだ。abstractはそのような行為を指しているのではないか。そうすると,本質となるものを抽象し,ということは同時に本質とならないものを捨象する行為である。どちらかではない。両方だ。

 ということで思ったことの結論は,抽象し,捨象する行為をabstractは指すのだから,どちらでもあるということだ。すなわち意味を使い分ける必要はないのだ。英語の一つの単語の意味としては1つだ。

 だが問題は,英語の一つの単語が,日本語ではなぜ複数の意味に対応させなければならないのだろうか?日本語では曖昧・混沌としたものから,その本質を導き出すと言う行為を一つの言葉で表す単語はないのだろうか?ひょっとしたら,日本語あるいは日本人にそのように考える習慣がないのであろうか?これが当面の問題である。何か宗教的,文化的なところに原因があるような気がするが,もう少し考えてみたいと思う。

ロッシはなにを考えていたか

 前回のブログの記事の続きになるが,「資本論」においてマルクスはロッシの言説を批判している。しかし,「資本論」を読んで,マルクスがロッシの何を批判しているのかが分かり難い。それが,この間の記事で取り上げた問題の背景にある。ロッシの主張は,彼の著書で展開されているのだから,ロッシ自身が何を主張していたかは彼の本を読めば分かるはずである。しかし私にはロッシのフランス語の著書を読む能力はなく,さらにフランス語を学ぶ気力もない。そこで,マルクスの文章から,ロッシがどのように考えており,マルクスはロッシのどのような考えを批判したのかを探りたい。

 そしてずばり,マルクスのロッシへの批判をより詳しく理解することができる資料がある。マルクスのGrundrisse(経済学批判要綱)であり,その中にマルクス資本論に引用したロッシの文そのものも書かれている。該当する経済学批判要綱の日本語訳は,新MEGAに基づいたものとして,「経済学批判要綱 第二分冊」『マルクス 資本論草稿集②』(資本論草稿集翻訳委員会訳, 大月書店,1993年)から出版されており,同書の「Ⅲ 資本にかんする章(続き)」の「剰余価値および利潤についての諸学説」の中でマルクスによるロッシの著書からの抜き書きと,批判がなされた部分が精密に訳されている(同書305頁-312頁)。以下,この部分から,ロッシが何を主張し,マルクスがどのような批判をしていたのかを,同書からのロッシの主張とマルクスの批判を対照的に見てみる。

--------------------------------------

(ロッシの『経済学講義』の主張)

「社会的進歩は,すべての協働を解体することにはありえず,過去の強制的,抑圧的な協働を解体することにはありえず,過去の強制的,抑圧的な協働を自発的かつ公正な協働におきかえることにある。」(同書305頁上段)

マルクスの批判)

「資本にあっては,労働者の協働は直接的な物理的強力,つまり強制労働,賦役労働,奴隷労働によって強制されているのではない。それは,生産の諸条件が他人の所有物であること,そしてこの諸条件がそのものが客体的な協働として現存しているー(略)ーことによって強制されているのである。」(同書305頁上段から下段)

(私の理解)

 私の理解でまとめると,ロッシが労働者が自発的に協働を始めたと”能天気”に主張していることに対して,マルクスは生産手段の私的所有という,まさに資本主義の仕組みによって,労働者の協働が労働者に対して強制されたと主張している。歴史を見れば,どちらが正しいかは明らかであろう。

--------------------------------------

 マルクスは,当時の経済学者たちが,資本というものが経済的形態(あるいは経済的関係,あるいは所有関係と言い換えても良いかもしれない)としてあることを見ずに,資本を素材的側面である生産用具としてしか見ていないことを批判している。ロッシもその例に漏れない。

(ロッシの主張)

「原料はほんとうに生産用具なのだろうか。むしろ,生産する用具がはたらきかけるべき対象ではないだろうか」(同書305頁後段)

マルクスの批判)

「つまりここでは,資本は彼にとって技術学的な意味での生産用具とまったく一致している。ー(略)ー原料は,それ自身がまた生産物である用具と同じく,生産のために用いられる。」(同書306頁上段)

(私の理解)

 ロッシは,資本の経済的形態を見ずに,資本をまさに素材としての生産用具と同一視している。その流れで,原料が生産用具に入るのか,あるいは入らないのかという混迷に陥っている。対してマルクスは,生産用具(マルクスにあっては労働手段)と原材料(同,労働対象)はいずれも生産に用いられる手段であり,同じ生産手段の要素になる。労働手段自身も過去の労働の生産物であった。しかし,ロッシにあっては,資本を生産用具と同一視したために,原料を生産用具とするのか否かに応じて,資本に属するのか,属さないかという混乱の問題が生じてしまった。

--------------------------------------

 続いて,ロッシが資本を経済的形態と見ずに,生産用具であると見なしてしまったことによって,賃金が資本の一部と見なすべきなのか,見なさないべきなのかという,これまた混迷を”導いて”しまっている。なお先回りすると,ロッシは賃金を資本の一部とは見なさないという”結論”を導いている。

(ロッシの主張)

「労働者の報酬は,資本家がそれを労働者に前貸しするのだから,資本なのだと言われる。ー(略)ー労働者は資本家に次のように言うことができるであろう。君は共同の仕事に資本を前貸しする。私は労働をそれに提供する。生産物は私と君のあいだでこれこれの割合で分配されるであろう。生産物が実現されれば,それぞれが自分の分け前をとるであろう」(同書306頁下段)

 しかし,ロッシは賃金が資本に属するという主張に同意していないと思われる。続いてロッシは言う。

「労働者は,仕事がないあいだでさえ消費するであろう。彼らが消尽するであろうものは,消費ファンドに属するものであって,資本に属するものではけっしてない。したがって,賃金は生産の構成要素ではない。ー(略)ー資本,労働,土地は,生産のために必要不可欠である。第二に,賃金という言葉が二つの意味で使われている。賃金は資本であると言われるが,しかし,賃金はなにを表すのか。労働である。賃金と言うのは労働と言うことであり,労働と言うのは賃金と言うことである。」(同書306頁下段から307頁上段)

 ここで,ロッシは労働を賃金と同一視してみる。そして,賃金を資本であるとするならば,労働も資本の一部となり,生産のために必要なものは,資本,労働,土地ではなくて,資本,土地だけになってしまうと言っている。ロッシとしては,賃金を資本に属するとすると,矛盾が生じることを主張したいようである。すなわち,賃金は資本に属するものではないと言うのが,ロッシの主張ではないか。

「結局のところ,労働者が消尽するのは資本家の財ではなくて,彼自身の財である。彼にたいして労働の報酬として与えられるものは,生産物のうちの彼に属する分割部分なのである。」(同書307頁上段)

さらにロッシの引用で,

「資本家が労働者と取り結ぶ契約は生産の現象の一つではない。ー(略)―つまり,賃金は富の分配の一形態なのであって,生産の要素ではないのである。ファンドのうちで,企業家が賃金の支払にあてる部分は,資本の一部を成すのではない。」(同書307頁上段)

 ということで,ここでロッシが主張することが明確になった。賃金は富(生産物と言ってよいだろう)の分配に属することで,資本に属するものではないと言っている。従ってロッシの主張に沿えば,資本とは生産用具であり,賃金は,あるいは労働者への分け前は,生産用具ではないことになる。少し混乱するのは,「労働と言うのは賃金と言うことである」という主張であるが,ロッシは賃金は労働との交換物であると考える。またロッシにとって生産に必要なものを生産用具とし,生産に必要なものとして,資本,労働,土地とロッシはなお考えている。繰り返すが,資本はロッシにあっては経済的形態ではなく,素材的側面としてだけ考えた生産用具であろう。

 ここで,「資本論」にマルクスが引用したロッシの文が出てくる。

「生産の仕事をしているあいだの労働者の生存手段を捨象しながら労働の力〔Macht〕を考えることは,空想的存在を考えることである。労働と言うのは,労働の能力と言うのは,同時に,労働者および賃金ということである。・・・・同じ要素が資本の名のもとにふたたび現われる。あたかも,同一のものが二つの異なった生産用具に同時に属しうるかのように。」

 それ以前の引用されたロッシの文章は分かる気がするが,このロッシの文章(とその訳)は分かり難い。そこで,分かりやすそうな後ろから解釈をしてみる。最後の文の「同一のもの」は,賃金を指すのであろう。「二つの異なった生産用具」とは,前のロッシの主張からすると,労働と資本ではないか。そうすると,最後の文は,賃金は労働に属するように見え,また賃金は資本に属するかのように見える,とロッシは言っていると思われる。ロッシとしても,同じものが異なった生産用具に属するのは矛盾であると考えていると推測する。さらに一つ前の文に移って,「同じ要素」とは,賃金,そしてロッシの上記の議論の展開にあっては労働と労働の力のことであり,これらは実は同じ要素であり,これが資本に属すると再び言われてしまうと,ロッシなりに批判している。

 そして最初の文の解釈を考える。「労働者の生存手段」というのは,労働者が生きていくために必要な物品と言って良いのではないか。これはまた労働者へ支払われる賃金(なお,ロッシは賃金という形式では必ずしもないとし,生産物の”分け前”とも言っている。しかし労働者が提供する労働に見合った分け前とはなっていないのが通例であるのを知らない人はいないだろう。)と言って良いであろう。また,同書では「捨象」と訳されているが,無視すると訳してもよいだろう。そして「生産の仕事をしているあいだ」ということは生産過程であろう。さらに,「労働の力」はロッシの時代の経済学者にあっては,労働も労働の力も区別がなかったのだから,労働でも同じであろう。すると,最初の文の前半は,”生産過程において,労働者への賃金のことを無視して労働のことを考えること”と言い換えられるのではないか。そして最初の文の後半が,「空想的存在を考えること」なのだが,ロッシの原文のフランス語と,マルクスによるドイツ語への”訳語”にずれがあるのではないか思われるのだが,この訳語において否定的な意味ととるか,肯定的な意味ととるのかがはっきりしない。

 草稿でマルクスが引用したロッシの文章から解釈すると,ロッシの主張としては,労働者への賃金(ロッシでは分け前とも)は生産には直接に結ぶ付かない。分け前(分配)は生産が終了した後の段階で生じるのである。そうすると,”生産過程において,労働者への分け前のことを無視して労働のことを考えること”は,ロッシの主張としては必ずしも否定的とは言えないだろう。むしろ肯定ではないか。すると,「空想的存在」ということは,解釈としては肯定ととるべきではないだろうか。「空想的存在」はロッシのフランス語の著書では,"être de raison"なのだが,googleのフランス語翻訳を使って日本語に訳すと,「正しいこと」と出る。ただ,原文では不定冠詞が付いており,"un être de raison"とすると,「理性の存在」となる。同じ翻訳サイトで,日本語ではなく英語に訳すと,不定冠詞なしでは,"to be right"となるが,不定冠詞付きでは,"a being of reason"となる。検索をすると,フランス語のサイト(Être de raison - Spinoza et Nous)で,"un être de raison"はスピノザの著書の"Pensées métaphysiques(形而上学的思想)"に由来するという説明も見つかるのだが,「すでに理解されていることをより簡単に保持し、説明し、想像するのに役立つ考え方」という説明もある。ロッシの時代にあって,"un être de raison"がどのような意味が使われていたかは私では知る由もないが,この説明に従うならば"un être de raison"を肯定的な意味にとって良いのではないだろうか。

 すると,ロッシの"un être de raison"は,資本論マルクスがドイツ語に訳した「妄想」とは矛盾するのだが,その理由は前の記事で推測した。

 以上で,少なくとも「資本論」に引用された箇所についてロッシがなにを考えていたかについて,マルクスの批判を通じてではあるが私なりに理解できたのではないかと思う。

 このマルクスによる草稿では,この後さらにロッシへの批判に加えてマルクスによる資本の解明がされているが,せっかくマルクスの草稿の一部を読んだので,私なりの理解をまとめてみたい。

 ロッシはなにを混同し,そして混迷してしまったのであろうか。

 一つにはロッシ(および当時の正統経済学)が資本の経済的形態を見落とし,資本を技術的素材としての生産用具としてしか見なしていなかった。その結果,労働者(正確には労働力の購入)に支払われる賃金が,資本の一部(より正確には資本の一部が充てられたもの)と見なせないという”珍説”を導いてしまった。もちろん現実の過程を見れば,資本の一部は労働力の買い入れに充てられるのである。ロッシにあってはこの”珍説”を避けるために,賃金は資本の一部ではなく,賃金は生産が終わった後での分け前であるとしようとしている。これが,マルクスが「資本論」で引用したロッシの”珍説”あるいは混乱であろう。すなわち,労働を資本とは独立な生産用具の要素として並列させている。なおロッシは土地も独立な生産用具の要素としている。マルクスは,ロッシが労働者の労働というものを,労働者の”自主的な”協働とみなし,賃労働という形態を消し去ったと,ロッシを批判している。しかし,資本と賃労働はどちらかが独立に存在するものではなく,表裏一体のものである。

 またロッシにあっては,労働力と労働の区別ができていない。このことが,賃金が資本の一部であるとロッシ(およびその当時の正統経済学)が理解できない理由の一つになっている。

 さらにロッシは,剰余価値がなにによって生じるかが理解できていない。ロッシにあっては生産に必要なものは資本,労働,土地という3つの要素であると考えている。そしてロッシは,資本,労働,土地それぞれが価値を生み出すと考えているのであろう。しかし価値を生み出すものはもちろん労働のみであり,資本自体も過去の労働が蓄積されたものである。また土地は価値を生み出さない。

 おまけにまとめとして,マルクスの言うところを大胆にも私の理解でまとめると,資本は労働力と労働手段と労働対象から構成される生産手段に変化し,労働力が使用されて労働がなされることで,労働手段と労働対象が結合されて生産物が生産される。そして生産物の販売を通じて資本に戻る。生産物には生産手段の消費に相当する価値と労働力の維持および再生産に相当する価値が再現するだけでなく,剰余価値も新たに加わって,販売を通じてより大きな資本となって還ってくる。また,労働者に支払われる賃金は,その賃金が消費されることで労働者の維持および再生産がなされ,労働力として資本に再び使用されることになる。資本家が労働者に支払う賃金(資本の一部)は,労働力の買い入れとして”消費”されるだけでなく,労働者が賃金を消費することで労働力として再び資本の前に戻ってくるのである。そして剰余価値は資本(擬人的には資本家)にのみ帰属するというのが資本主義である。その理由は,形式的には生産用具(のそれぞれの要素)が価値を生むものとされ,資本と労働がロッシと同様に独立のものとしてなお現在の資本主義ではしばしば”妄想”されているのではないか。しかしロッシが生産用具の一つとした資本は,実は過去の労働の蓄積であり,決して労働と独立のものではない。

 以上,マルクスのロッシに対する批判を見たが,160年ほどの前のマルクスのロッシへの批判は,「新しい資本主義」などが標榜される現在の資本主義下に暮らす人々にとっても,しばしば陥りがちな自らの”妄想”への批判としても通じるものがあるのではないだろうか。

 

 

マルクスのArbeitsvermögenとHirngespinstについてのフランス語の原文の付加について

 マルクス資本論」第1部「資本の生産過程」第2編「貨幣の資本への転化」第4章「貨幣の資本への転化」第3節「労働力の売買」の中で,ロッシの本の文を引用して,彼の労働力の価値規定を批判するくだりがある(原典187頁第3段落から第4段落)。その引用部分は,

”Das Arbeitsvermögen (puissance de travail) begreifen, während man von den Subsistenzmitteln der Arbeit während des Produktionsprozesses abstrahiert, heißt ein Hirngespinst (être de raison) begreifen. Wer Arbeit sagt, wer Arbeitsvermögen sagt, sagt zugleich Arbeiter und Subsistenzmittel, Arbeiter und Arbeitslohn.“

(このドイツ語は,cap1.pdf (utah.edu)から借りた)である。

 ロッシのフルネームはWikipediaによるとペッレグリーノ・ロッシ - Wikipediaで,イタリアに生まれ,フランスへ亡命し,途中ジュネーブ市に帰化を認められたがフランスに戻り,最後は駐教皇領大使としてローマに渡り,階段で首を刺されて殺害されたとある。ロッシが生きていた時代は1787年から1848年で,「資本論」で引用している彼の著作は1843年とあるが,WikipediaではCours d'économie politique(1838年 – 54年)とある。現在は便利なことに,この本はGoogleで電子化されたものが見つかる。

Cours d'économie politique - Pellegrino Rossi - Google ブックス

この本はフランス語で書かれていて,1843年にブリュッセルではなくパリで出版されたもののようだ。なお,上記のものは第2巻で,第1巻もあるようだ。

 マルクスは1843年からパリに,1845年からはブリュッセルに,さらに1848年から1849年にフランスとドイツを行き来し,1849年にイギリスに入国するから,マルクスはほぼ同時代の人間としてロッシの著作をブリュッセルで目にしたのであろう。ロッシの本はフランス語で書かれ,学者だけでなく多くの人に読まれて影響力をもっていたのかもしれない。それゆえ,マルクスは「資本論」においてロッシの文を取り上げて,彼の理解を誤りとして取り上げて批判したものと想像する。また,「資本論」で引用されている文は,「資本論」がドイツ語で書かれているので,引用の際にマルクス自身がフランス語からドイツ語へ翻訳したのではないかと思われる。

 さて,そこで問題としたいのは,ロッシの文章のマルクスによるドイツ語への翻訳である。マルクスはフランス語を理解し,ロッシが何を主張していたかも正確に理解していたであろう。そのドイツ語訳もそれなりのものであると想像されるが,しかしながら上記のロッシの引用の中で,2か所フランス語が括弧付きで示されている。

 1つ目がpuissance de travailで,2つ目がêtre de raisonである。次にそれぞれの箇所について検討してみる。

 まずpuissance de travailであるが,こちらのマルクスの訳はArbeitsvermögenである。このドイツ語のArbeitsvermögenを大月書店の「資本論」(普及版)では労働能力と訳している。また普及版でも元のドイツ語の「資本論」と同様に(puissance de travail)と原文のまま書かれていて,これは日本語に訳されていない。では,puissance de travailの日本語訳は何かというと,excite翻訳でもGoogle翻訳でも作業力となる。ちなみにこれらの翻訳を使ってドイツ語への翻訳を試みると,Arbeitskraftと出る。Arbeitskraftは労働力であり,「資本論」でお馴染みのタームである。

 次に,être de raisonは「資本論」では,マルクスはHirngespinstと”訳”している。さらにドイツ語のHirngespinstの日本語訳は,「資本論」(普及版)では”妄想”と訳されている。ではフランス語の方はというと,上記の翻訳を使うとêtre de raisonはそれぞれ”理由がある”,”正しいこと”と出る。ちなみに語順を逆さにしたraison de êtreは,”存在する理由(レーゾンデートル)”であるのは良く知られた話である。マルクスが”訳”した”妄想”と,”正しいこと”あるいは”理由がある”はあまりに意味が違うのではないか。

 そこで疑問なのだが,なぜマルクスは2か所について原文のフランス語を示したのであろうか?たまたまなのか?もちろんそのような事はないだろう。

 一つ目のArbeitsvermögenとpuissance de travailは,それぞれを日本語にすると労働能力,作業力となって,大きな違いは一見感じられない。Arbeitsvermögenという用語を「資本論」第1部内でcap1.pdf (utah.edu)に対して検索をすると6か所しかない。ところがpuissance de travailのあり得るドイツ語訳となるArbeitskraftは検索では517か所も出てくる。「資本論」では労働力という用語が重要な用語であるのは言うまでもないだろう。そこで推測だが,ロッシの使用するpuissance de travailは,単純に訳すとArbeitskraftになってしまうが,ロッシが意味するpuissance de travailと,マルクスが意味するArbeitskraftとは異なるので,あえて異なるArbeitsvermögenとし,ただちょっとマルクスとしても後ろめたさがあって(puissance de travail) を付加したのではないだろうか?

 次にHirngespinstとêtre de raisonであるが,それぞれは”妄想”と”正しいこと”であり,ほぼ正反対の意味である。ほとんど”誤訳”と言って良いほどに思われる。それが,このマルクスが引用したロッシの文章を理解不能に思われるものとしており,紙屋研究所

『資本論』にでてくるabstraction

『資本論』にでてくるabstraction(続き)

というブログを書いてしまう遠因になっている。なお,紙屋研究所での上記のブログの解釈はドイツ語の文法を考えれば成立しない話であり,この点はIkimono-Nigiwai氏の指摘で尽きている。では,なぜマルクスは”誤訳”をしたのだろうか?その理由は分からない。ここであえて推測をすると,マルクスのいたずらではないかと思う。マルクスは皮肉屋である。その彼が誤ったことが分かっている文について,たとえ引用であったとしてもそのまま書きたくなかったのではないだろうか?そこで,あえて”誤訳”し,マルクスが考えるところの”真の意味”に”変換”し,ただそれでは後ろめたいので,原文のフランス語を付けたのではないだろうか?なお,ロッシの原文については,Cours d'économie politique - Pellegrino Rossi - Google ブックスマルクスの引用に該当するフランス語の箇所を見ても妄想に相当する言葉がどこにも出てこない。ロッシは波乱の生涯を送ったと言えるが,その経歴からは体制側であったとも言え,徹底的に反体制派であったマルクスのように皮肉屋になる必要はなかっただろう。

 ここで提案であるが,「資本論」の当該の日本語訳において,マルクスが括弧書きで付加したフランス語も日本語に訳すべきではないだろうか?私も含めて決して多くの日本人がフランス語を理解するものではないだろう。

 なお,マルクスが書いた文章が必ずしも意味的に筋が通ったものばかりであるとは限らないと想像されるが,しかしドイツ語の文法は英語以上にしっかりしたものであるので,翻訳にあたってはマルクスの文章が意味が通っていないと思われても文法を頼りとして訳し,どうしても気になるのなら訳注などを付ければ良いのではないかと思われる。翻訳者はあくまで翻訳者であり,翻訳者が仮に理解できなくても著者の意図を尊重すべきである。著者の意図を翻訳者が完全に掴み切れるとは限らないからである。

ドイツ難語句について

ドイツ難語句というサイトがあった。

ドイツ難語句/ギリシア・ラテン語句の意味 (ntaki.net)

ここに,abstrahierenについての解説があった。ここで,上記URLの解説を採録させていただくと,

 解説:どちらの意味になるかということですが:
(1) 「aus etwas(3 格)+etwas(4 格)+abstrahieren」のように、aus と共に他動詞として使われていれば、主語が etwas(3 格)から etwas(4 格)を「抽象する」と、一応は言えそうです。
 小学館『独和大辞典 第 2 版』の abstrahieren の項目には、例文として:
 aus et. allgemeine Prinzipien abstrahieren 「・・・から一般原則を抽象する」

(2) 「von etwas(3 格) abstrahieren」 のように、von と共に自動詞として使われていれば、主語が etwas(3 格)を「捨象する」となります。「etwas(3 格)から抽象する」という意味にはなりません。
 また、「Es wird von etwas(3 格) abstrahiert」 のように、自動詞 abstrahieren が過去分詞になり受動形として使われているときにも、やはり etwas(3 格)が「捨象される」となります。』

とされている。(1)はabstrahierenが他動詞として,(2)はabstrahierenが自動詞として活用されていると言って良いだろう。

ということで改めて

『資本論』にでてくるabstraction(続き)

をみると,Rossiの文章とされるものは,

"von den Subsistenzmitteln der Arbeit während des Produktionsprozesses abstrahiert"である。abstrahiertがvonとともに使われていて,まさに(2)に該当するので,ここでのabstrahierenの意味は捨象するというものになる。

さらに,

『資本論』にでてくるabstraction

のコメントでのIkimono-Nigiwai氏の指摘は,abstrahierenが自動詞か他動詞かという観点で,Ikimono-Nigiwai氏は自動詞であると言っている。

 しかし,この指摘をkamiyakenkyujo氏は次のブログでは特に注目せずに,意味の整合性という点でのみ議論している。その意味では,Ikimono-Nigiwai氏のコメントを議論しているように見えて,実は議論していない。

 以上,Rossiの原文から考えても,ドイツ語の語句の文法的な使用法としてみても,Rossiの文章としてマルクスが(恐らくマルクス自身がドイツ語に翻訳して)引用している"abstrahieren"は「捨象する」という意味とすることが妥当であることが分かった。この点をkamiyakenkyujo氏はあっさり認めて訂正されるのが潔い態度だと思われる。

「捨象する FAIRE ABSTRACTION DE ...」について

フランス語で,"FAIRE ABSTRACTION DE"の意味について,参考になるブログがあったので,覚書として以下にメモする。

捨象する FAIRE ABSTRACTION DE ... - フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE (goo.ne.jp)

このブログの説明で,『最初、この abstraction を 「抽象化すること」、つまり時代を相手にして抽象化しなければならないと訳していた。それでどうして矛盾するのかが全く掴めなかったのだ。』という話があった。まさにこれがRossiの文章に関わる。

改めて,「Le Dico」(白水社)で,abstractionを引くと,

faire abstracion de qch ...を考慮に入れない,除外する

とある。

そして,faisantはfaire の現在分詞。

ということで,Rossiの文章の"en faisant abstraction des moyens de subsistance des travailleurs pendant l'oeuvre de la production, c'est concevoir un être de raison."の英語訳が,"To conceive of the power of labor, disregarding the means of subsistence of the workers during the work of production, is to conceive of a being of reason."とすることは尤もなことである。ここでの"en faisant abstraction des"は"disregarding"に対応し,disregardingは無視するである。

なので,

”『資本論』にでてくるabstraction(続き)”

でなされている解釈は誤りであると思われる。

場の源となる粒子の質量について

 粒子が”中性”で場の源とならない場合、粒子の質量は粒子のみと言って良い。ところが粒子が場の源となっていて、その粒子が運動する場合、その粒子が源となっている場も引きずる。そうすると、その粒子の見かけ上の質量は、粒子のみだけでなく、その粒子が引きずっている場全体の”質量”も、その粒子の見かけ上の質量に含まれなければならない。すなわち、粒子が回りの空間と”つながり”を持っている場合は、粒子の境界がひろがる。あるいは境界を明瞭に決めることが難しくなる。

 また、ある粒子が源となっている場が、その場を通じて他の粒子に影響を与え、その他の粒子が源なる場もまたある粒子に影響を与える場合がある。このとき、ある粒子が運動をすると、他の粒子に影響を与え、さらに他の粒子からある粒子に影響が”返って”くる。このとき、ある粒子の見かけ上の質量を他の粒子から分離することは可能であろうか?この場合は分離することはできない、あるいは粒子を加速して”見かけの質量”を決定しなければならなくなる。